けろの漫画雑談所

漫画の感想・考察・妄想の集積所です。主にジャンプ作品についてだらだらと語ります。

【考察】禪院家は単なる「クソ一家」なのか【呪術廻戦】

Hatena

 ども、けろです。

 第148話の描写で元々低かった株価の下落が止まらない禪院家。

 

 甚壱や扇、直哉など、これまで登場してきたキャラクターのほとんどがなかなかに強烈なキャラクターで、SNSやYoutubeでは「クソ一家」「胸糞」などの表現が飛び交う今日この頃。

 その感想自体は全然いいと思います。現に多くの読者の目には禪院家はなかなか「クソ」であり、事実として真希や真依といったキャラクターは虐げられているので。

 

 

 ただ、それは果たして「禪院家を語る上での全て」なのでしょうか。

 彼らを一概に「クソ」と表現することはどこか一元的な側面である気がして、禪院家という家系を少し掘り下げて考えてみようかなと。

 

 というわけでやっていきましょう、呪術廻戦考察回、禪院家編です。

 

1.封建的家父長制としての禪院家

 

 御三家、とりわけ禪院家を語る上で最も中心的になる価値観として、封建的家父長制というものが挙げられます。

 彼らを「クソ」と論じる上で、これらの思想・価値観を知ることでその解像度を高めることができるのではないでしょうか。

 それはつまり、「彼らを見て何故クソと感じるのか」という、ある種直感的反応の言語化の試みであり、「現代的価値観との乖離」という側面の具体化の作業です。

 

1-1.封建社会

 

 まず前提となる「封建的」という言葉が指し示す概念ですが、これは雑にまとめてしまえば「主従関係の常態化」を意味します。

 「封建制度」と聞くと中学の歴史の授業を思い出す方もいると思いますが、これは領主と奉公人を「御恩と奉公」によって結ぶ制度のことであり、身分に基づく明確な上下関係を制度化したものです。

 

 「封建社会」は前述の封建制度が根付いた社会のことで、個人をその能力や性質によって定義するのではなく、身分や階層によって位置付ける社会のことを指します。

 

 禪院家では「当主」の持つ権限が非常に強く、家系内の上下関係もかなり強いものでしたね。加えてそれらの関係性に対して批判する者もほとんどおらず、一族の中では「無謬の文化」として根付いていることがわかります。

 

1-2.家父長制

 

 ジェンダー論の文脈でよく聞かれるようになったこの単語。

 難しい説明を省いてざっくり説明すると「男性を首長・中心とすることを是とする価値観・制度」のことです。身近なところで言えば「大黒柱」「男性=稼ぎ手」であったり、少し視点を広げれば「社長=男性」「政治家=男性」といったものも家父長制の名残といえます。

 

 こうした価値観の下では非男性(多くは女性)が抑圧される構図にあり、女性の大学進学率が低かったり政治の世界が男性によって牛耳られていたりといった問題が挙げられます。

 

 禪院家はこういった思想を前面に押し出しており、その筆頭が僕らが愛する禪院直哉くんです。

 「三歩後ろを歩かれへん女は背中から刺されて死んだらええ」はその思想をシンプルかつ的確に表現した台詞であり、(術式を持っていないとはいえ)真希に対する当たりの強さはこうした「男性=家系の中心的人物」という凝り固まった文化によるものです。

 

 

 つまりまとめると、封建制と家父長制という二つの思想が混ざることで生まれた価値観こそが禪院家を取り巻くものであり、甚壱や扇、直哉くんが標榜する価値観です。

 

 

 実力(≒術式)のない者を虐げたり、女性であるというだけで抑圧されたりするのはこうしたバックボーンがあるからです。

 

2.実力主義のある種合理的な側面

 

 禪院家を評する上で非常にわかりやすいのが、その徹底した実力(≒術式)至上主義です。

 真希や真依が虐げられていたのは言わずもがなとして、身体能力だけで言えば特級呪霊すら祓えるはずの甚爾も悲惨な扱いを受けていたことからもその根深さ・思想の強さは頷けるでしょう。

 

 ここで問題となるのは、果たして純然たる実力至上主義というのは絶対悪なのか、という点です。

 

 僕たち読者は禪院家という家系を知る以前から禪院真希というキャラクターを目にしてきました。その生い立ちに関する描写や彼女の語りから、僕たちは自然と彼女に感情移入し、「術式に恵まれなかった個人が、それでも成り上がろうと努力する姿」を自然なものとして受け入れてきました。

 読者の多くが(良い意味で)「特別ではない人間」だからこそ真希のキャラクター像というのは刺さるものがあるし、彼女の逆転ストーリーを期待していました。

 

 

 だからこそ真希を無下に扱う直哉くんをはじめとする禪院家に対してヘイトが向けられていたし、「真希さん頑張って!」という思いから禪院家に向けられる敵意というのは大きくなっていたわけです。

 

 真希という個人の思いや夢といったミクロな視点から少し離れて、「呪術界」という大きな枠組みで考えてみましょう。

 

 呪術界、とりわけ御三家に蔓延する術式至上主義というのは、視点を変えてみれば「非常に合理的な考え」と言い換えることができます。

 

 というのも、術師に求められるのは1.呪霊を祓うこと、2.呪詛師と戦うことの2点であり、それらは突き詰めれば「非術師を守ること」に繋がります(だから伏黒は「強者としての責務」と口にしていたわけですね)。

 

 呪霊・呪詛師と戦う上で、術式の有無・その強さというのは非常に重要な点になります。

 呪霊や呪詛師の等級にも依りますが、相手が一級〜特級クラスであれば非常に手強いですし、場合によっては任務中の殉職も当然のように起こり得ます(現に先代当主の直毘人も渋谷事変にて特級呪霊相手に命を落としています)。

 こうした対呪霊・呪詛師戦において、「術式を持っていないこと」というのはそれだけでデメリットになります。雑に言ってしまえば「足手まといが戦場にいる」ということですし、それだけで作戦失敗のリスクが高まるからです。

 

 東堂レベルのセンスがあれば「不義遊戯」のような術式でも十二分に立ち回れますが、真依の「構築術式」は対呪霊戦ではあまり効果的とは言えませんし、術式を保有していない真希なら尚更です。

 

 

 つまり、「呪霊や呪詛師から非術師を守る上で術式がない者は足手まといであり、それらを排除することは非常に合理的である」と言えるということです。

 僕ら読者がこれに対して非常に強い違和感・嫌悪感を抱くのは、僕らが受けてきた教育が「人権・個人の尊厳>社会・組織全体の便益」という価値観を前提に置いているからです。

 良い悪いの話ではなく、こうした価値観を無意識に前提に置いているからこそ、「個人を(合理性のために)疎んじる禪院家」には嫌悪感を抱くし、「実力が劣る真希が組織に歯向かう」という構図には親近感を覚えるわけですね。

 

3.思想のエコーチェンバーは誰の罪か

 

 「エコーチェンバー」という言葉があります。英語で書くと"echo chamber"です。

 これは閉鎖的空間の中でコミュニケーションが行われることで特定の思想や価値観が強化されていく現象を指す言葉で、現代ですとSNSでよく見られる現象です。

 

ja.wikipedia.org

 

 

 禪院家においても、このエコーチェンバーが顕著に見られます。

 何故なら呪術界というのはそもそもが閉鎖的・排他的環境です。術師そのものが日陰者であり、数の点から言ってもマイノリティだからです。

 

 その中でも御三家というのはその筆頭で、旧来的な価値観を保持してきた一族です。

 何せその始まりが1000年前であり、前述のような封建的家父長制を維持し続けています。

 

 簡単に言ってしまえば「外部からの批判に晒されにくく、そのせいで旧来的な価値観が強化・放置されてしまっている」ということです。

 

 

 ここで論じたいのは、「これらの価値観の再強化は誰の責任なのか?」という点です。

 もちろんその筆頭が外部からの批判を拒み続けてきた禪院家であるのは間違いないのですが、果たしてそれだけでしょうか。

 確かに御三家の影響力は術師個人の昇級に介入できるほど強いものですが、そこに対して何かしらの対抗策を打ち出してこなかった呪術界全体、とりわけ若い術師達もまたその一端に関わっているのではないか、と。

 

 彼らの基本スタンスは「御三家/呪術界上層部ってクソだよねーどうにかしないとねー」なんですが、じゃあ彼らはその構図を壊すための何かしらのアクションを起こしてきたのでしょうか。

 

 それらを怠った上で一元的に「禪院家はクソだよね」と断じてしまうのは、自分がこれまで間接的・無自覚のうちにそうした保守的な思想の再強化を行ってきた事実に蓋をしてしまうのではないでしょうか。

 

4.悪意なき蔑視発言は「悪」なのか

 

 加えて、じゃあ当の禪院家本人達は果たして「悪」と断ずるに値するのか、という問いもあります。

 何故なら前述のように御三家というのは内的・外的要因によってその思想が保持され続けてきた一族であり、そこに生まれた者も否応なしにその構図に組み込まれてしまうからです。

 

 つまり扇や甚壱、直哉くん達は、「グヘヘwww今から悪いことをするぞwww」という明確な悪意をもって真希や真依を抑圧しているのではなく、生まれた時から周囲に当たり前のように存在する普遍的価値観を吸収し、それをベースに発言・行動しているのです。

 彼らにとって「合理的観点に基づいて弱い術師を家庭内で周縁的な立場に位置付ける」というのはある種「当たり前」の行動であり、そこに善悪の価値判断は存在していないわけです。何せ「当たり前」なわけですから。

 

 

 じゃあ彼らは真の意味で批判されるべき悪者当人なのか?

 

 

 僕個人の答えは正であり、誤であると思います。

 

 

 人間性や個人の思想という観点で見れば直哉くん達は明確な加害者であり、批判されるべき「クソ人間」ですが、禪院家・御三家という(≒歴史的深さのある一族という)観点から見れば、大きな歯車の中に組み込まれてしまった犠牲者であり、前時代的価値観の被害者ということができるからです。

 

 

 

 こうした視点を持って呪術廻戦を読み返してみると、禪院家の人間に対しても愛着を持つことができるのではないでしょうか。

 ちなみに僕は人間臭さという一点において直哉くんが大好きです。表裏がなくて最高。

 

 

 

 少し長い上に小難しい話をしてしまいました。

 

 たまにはこういう考察もありですよね。

 

 

 それではまた。

 

 

 よしなに。