けろの漫画雑談所

漫画の感想・考察・妄想の集積所です。主にジャンプ作品についてだらだらと語ります。

【考察】劇場版で描かれた『足元と血溜まり』の意味を考える【呪術廻戦】

Hatena

 ども、けろです。

 劇場版呪術廻戦0の公開から早くも1ヶ月が経ちました。既に劇場版第一弾特典の0.5巻は配布を終了しており、このブログを書いている現在は第二弾となる"純愛ビジュアルボード"が配布されており、今後第三弾・第四弾の配布が予定されているのでこれから先も盛り上がりが期待できそうです。

 

 さて、今回はそんな劇場版呪術廻戦0に関する三本目の考察記事になります。

 ちなみに劇場版に関する考察記事は過去に二本ほど上げているので、そちらもよければご覧ください。

 

kero-entame-channel.hatenablog.com

 

kero-entame-channel.hatenablog.com

 

 

 三本目となる今回は、劇場版で新カットとして挿入された「足元の血溜まり」に焦点を当て、その意味に関して考察していきます。

  

 それでは早速やっていきましょう、劇場版呪術廻戦考察回です。

 

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1.前提の共有

1-1.劇場版で三度描かれた「足元と血溜まり」とその差異

 

 今回の劇場版で挿入された新カットの一つに、「キャラクターの足元のアップと、そこに広がる血溜まり」というものがあります。これは原作にはない表現で、映像化にあたって新しく描かれたものです。かつ、何気ないシーンとして流されているというよりも、明らかに明確な意図があって描かれているな、というのが映像を確認した感想です。

 

 というのも、その「足元と血溜まり」の描写は作中で三度登場するカットですが、その全てにおいて「足の持ち主となるキャラクター」「血溜まりの原因」「血溜まりを前にした時の反応」が明確に異なっています。

 

 これは後述しますが、最初は「乙骨憂太の足とクラスメイトの血」、次が「菅田真奈美の足と金森の血」、最後が「夏油傑と禪院真希の血」です。

 

 さて、足の持ち主も、血溜まりの対象も異なっているこれらの描写ですが、共通している要素が一つだけあります。

 それが「足の持ち主が呪術師であり、血を流しているのが非術師である」という点です。

 (※厳密に言えば真希は「四級術師」なので「非術師」ではありませんが、ここでは「呪力を持たない者=非術師」として記事を進めます)

 

1-2.「足元と血溜まり」=「傷つけてしまった非術師との関わり方」

 

 「足の持ち主が呪術師である点、血を流しているのが非術師である」という点を踏まえると、一つの解釈が浮かび上がってきました。

 

 それは「足とその置かれ方」「自らの立場と意思の所在」を意味し、それが結果的に「傷つけてしまった非術師との距離感・関わり方」を示唆しているのではないか、ということです。

 

 さて、ここで本記事の前提の共有が終わりましたので、次項から詳述していきます。

 

2.乙骨憂太:「喪失」の象徴

 

 乙骨憂太と血溜まりのシーンは映画の冒頭で描かれます。

 乙骨を虐めていた同級生が里香の手によって半殺しにされ、ロッカーに詰められた際にロッカーから染み出した血が乙骨の足元に広がっていく衝撃的かつグロテスクなシーンですが、ここでの「足の置かれ方」「座り込んだまま動かない乙骨の足元を、同級生の血溜まりが飲み込む」という描かれ方をしていました。

 

 映画ではこの直後に乙骨が高専に転入しており、この事件が契機と捉えてまず問題ありません(より正確にはこのロッカー詰め事件より前に「決め手となる大きな事件」があったとファンブックにて言及されていますが、あくまで映画上の演出の話です)。

 

 さて、このロッカー詰め事件の前後で、乙骨憂太というキャラクターは大きく変化しています。

 事件の前は里香の呪いのせいで周囲とうまく関わることができず、誰かを傷つけたりしないよう受け身で生きていた乙骨は、高専入学後は「里香の呪いを解く」という目標を見つけ、同級生との関わりを通じてみるみるうちに明るくなっていきます。

 

 ただ、このロッカー詰め事件の時点では乙骨の性格はひどく内向的かつ受動的。そしてそんな乙骨の生活が、同級生を傷つけたことで流転する、というのが映画の導入部です。

 

 乙骨という人物のキャラクター設定と物語の展開を考えると、この「座り込んだまま動かない乙骨の足」というのは「目の前で起こることに対して受け身で生きてきたこれまでの乙骨の生き方」を、「それを飲み込むように広がる血溜まり」は、「そんな乙骨の生活が、非術師を傷つけてしまったことで決定的に変わってしまったということ」をそれぞれ暗示していると考えることができます。

 

 そしてそれは、この時点での乙骨にとっては「喪失」と近しいはずです。これまでの生活が一変し、生まれ育った土地を離れることになったわけなので、少なくともこの時の乙骨視点ではそのように解釈できるでしょう。

 

3.菅田真奈美:「忌避」の象徴

 

 劇場版の敵・夏油傑がその姿を現し、彼の元を訪れた女性の除霊をした次のシーンで、再び「足元と血溜まり」のカットが描かれます。

 それは呪霊を祓うよう懇願してきた男性・金森が夏油によって殺害されたシーンのことです。

 

 夏油の呪霊によって殺された金森は地面に崩れ落ち、その体からは夥しい量の血液が血溜まりを作りました。そしてその血溜まりを目の当たりにして、夏油の側近・菅田真奈美は「足を退けて血を避ける」という行動を取ります。

 

 その時に彼女が口にした台詞は「穢らわしい。本当に同じ人間ですか?」というものであり、そこには非術師に対する偏見と嫌悪感が見てとれます。

 

 「血溜まりを前にしても動かなかった乙骨」とは対照的に、「(非術師の)血溜まりに対して明確な嫌悪感を向ける菅田」というのは、ある種「忌避」の象徴と考えることができます。

 菅田がどのような背景で夏油に心酔していったのかは描かれていませんが、劇中での非術師への台詞から考えるに、彼女が何かしらの形で不遇な扱いを受けてきた可能性は否定できません。

 金森を直接殺したのは夏油ですが、菅田と非術師の関わりというのは得てして「嫌悪」「忌避」と形容するに充分だと考えられます。

 

4.夏油傑:「覚悟」の象徴

 

 最後は劇中の敵・夏油傑です。

 彼に関してはストーリー終盤、百鬼夜行にて手薄になった高専を訪れた際に目の前に現れた禪院真希を返り討ちにした直後に該当のシーンがあります。

 

 構図としては「地面に広がる真希の血溜まりを、夏油の足が踏み締めて行く」というものになっており、ここでも「足と血溜まり」が描かれています。

 

kero-entame-channel.hatenablog.com

 

 その行動の意図については下記の記事で詳しく考察していますのでここでは触れませんが、ここで大事なのは前述した乙骨・菅田両名と異なり、夏油が「自ら進んで血溜まりに足を踏み入れている」という点です。

 このシーンで夏油によって傷つけられているのは真希、つまり呪力を持たない人間です。ここでは便宜上「非術師」と呼称することにしますが、夏油は「非術師の血を、自らの足で踏み締めた」わけです。

 

 「足で踏む」という行為には、個人的には肯定的な意味と否定的な意味の二つがあると思っています。

 否定的な意味は「否定・拒絶」。かつて日本で行われていた「踏み絵」が馴染み深いですね。肯定的な意味は「踏み締める」という字の通り「その身で受け止める」です。自らの足で踏み締めることで実感を得るという体験的なもので、よく物語で「新たな一歩」などと表現されるのはこちらの意味です。

 この夏油の行動はどちらにも捉えられますが、上述の考察記事に従い、ここでは「好意的な行動」として考えます。

 

 つまり夏油は、「自身が傷つけた非術師である真希の血溜まりを、自らの意思で踏み締める」という「体験的行動」を進んで行ったわけです。これはその場から動かなかった乙骨とも、血溜まりに触れないよう足を退けた菅田とも対照的です。

 

 僕はこれを、「覚悟」の象徴であると解釈しました。自分が傷つけた非術師の傷を、その身で受け止めることで修羅の道を歩む覚悟を示しているのではないか、と。

 

 乙骨は「喪失」、菅田は「忌避」、夏油は「覚悟」

 非術師の血溜まりと彼らの足元の描写から、こんな意味があるのではないかと考えた次第です。「足元と血溜まりのカット」だけで「自らの立場と意思の所在」を表現しているのだとしたら、本当に末恐ろしいなと震えています。

 

 

 さて、いかがでしたでしょうか。

 何気ないワンカットですが、こうして考えるとまた違った意味がありそうで、つくづく製作サイドの映画にかける思いの深さに打ちのめされます。本当に素晴らしい映像をありがとうございますという想いを胸に、僕は第三弾・第四弾の特典を求めてまだまだ劇場に足を運びます。

 

 

 それではまた。

 

 よしなに。