けろの漫画雑談所

漫画の感想・考察・妄想の集積所です。主にジャンプ作品についてだらだらと語ります。

【考察】アニメ勢がガチで考察する"猗窩座"という鬼の正体【鬼滅の刃】

Hatena

 ども、けろです。

 唐突ですが、僕が今恐れているものが3つあります。一つは歳を取るごとに強く感じるようになった時間の流れ。一つが棚に積み上がっていく積読と積みゲーの数々。そしてもう一つが、『鬼滅の刃 刀鍛冶編』以降のストーリーに関わるネタバレです。

 

 漫画好きで、こんなブログをいそいそと書き、毎週狂ったようにジャンプの感想をツイートしているので意外と思われるかもしれませんが、実は『鬼滅の刃』に関しては完全な漫画未読勢です。

 『鬼滅の刃』が本誌で連載されている時にちょうどジャンプを読んでいなかったのが主な原因(ジャンプ購読を再開したのが2020年38号の『BURN THE WITCH』連載開始からなので、その時『鬼滅の刃』はすでに連載が完結していました)ですが、本編が完結した後もなぜか漫画を読んでこなかったわけです。

 

 今思えば漫画を手に取るタイミングはいくらでもあったわけですが、僕が今に至るまで頑なに「アニメ勢」を貫いているのは、「『鬼滅の刃』という作品は、アニメという媒体で作品を完結まで追いかけたい」というめんどくさい思いがあるからです。

 とはいえTwitterをはじめとする様々なプラットフォームにはファンアートやら解説動画、感想ツイートやらが大量に出回っており完全な自衛はできていないというのが現状です。時折特大のネタバレを踏んでは悶えています。

 これについては原作が完結して既に数年が経過しているので、原作を追っていない僕が100%悪く、それらの発信を批判する意図は全くありません。最近は特に自衛のハードルの高さを痛感していますが。

 

 さて、タラタラと前置きが長くなりましたが今回はそんな『鬼滅の刃』という作品の登場する一人の鬼、上弦の参・猗窩座について、彼の正体はいったい何なのか?という数周遅れというかもはや別競技と化している考察兼妄想を垂れ流していこうと思います。

 というのもですね、多分僕は猗窩座がめちゃくちゃ好きなんですよ。まだその表層しか語られていないキャラクターではありますが、沼る要素がそこら中にある気がしています。

 多分原作ではここら辺についても既に語られている(と思う)のでここから先は「原作が完結して既に数年が経過しているのにいまだに鬼滅の刃を全然知らないオタクが、アニメの描写を見て好き勝手に話す」というとても滑稽な記事になります。原作勢の方は生暖かく見守っていただけると嬉しいです。

 

 それではやっていきましょう、鬼滅の刃考察回です。

 

 



 

1.前提の整理〜事実・推論・妄想の使い分け〜

 

 記事を進めていくにあたっての大前提として、作中で描かれてきた情報の取り扱い方をきちんと定義しておこうと思います。

 まずは「事実」。これは当たり前ですが「作中ではっきりとお出しされた描写」を指します。「誰々は過去に何をしてきた」「誰々はどういう台詞を発した」という、解釈の余地が介在しない「現象」であり、覆しようのない「事実」の話です。

 「推論」「妄想」はかなり線引きが曖昧ですが、「推論」は「作中で語られた事実をベースにしつつ、様々な解釈を加えて組み立てたイメージ図」といった感じで、「妄想」は「推論からさらに派生し、"こうだったらいいな"という筆者の願望」という感じです。「〜に見えます」とか「〜だと思われる」みたいな文章がこれにあたります。

 どこまでが事実でどこからが僕自身の解釈/妄想なのかをきちんと切り分けないと、多分読んでいる方も「?」となると思うので、この辺りは明確にしておこうと思います。

 

2.二種類の鬼〜欠落と快楽〜

 

 『鬼滅の刃』という作品には、これまで多くの鬼が登場してきました。名前のないモブ鬼から、十二鬼月という敵の幹部格まで幅広いですが、彼らを見ていく中で僕は「鬼には大きく分けて二種類のタイプがいるのではないか」ということに気づきました。そしてそこに猗窩座も当てはまるのではないか、と。

 

 それこそが「欠落を抱えた者」「快楽を満たす者」であり、特に上弦/下弦の鬼はこれらに分類できる者が多くいると思っています。

 

2-1.下弦の伍・累

 

 まずは那田蜘蛛山編で登場した下弦の伍・累。

 僕は彼を「欠落を抱えた者」だと思っています。

 

 まずは事実の話から。

 累は「家族を渇望するキャラクター」であり、自分自身の能力を他の者に分け与えたり、わざわざ容姿を似せさせたりするなど、「家族」というコミュニティに対して強烈な渇きを持つキャラクターでした。

 とはいえその形は極めて歪で、累が理想とする家族像から外れたりした場合は容赦なく切り捨てて新しい者を迎え入れるという、とても「深い絆で結ばれた家族」とはいえないものでした。

 じゃあその「渇望」はどこからきていたのかというと、彼の人間時代にあったと考えられます。

 人間時代、虚弱体質だった累は満足に歩くこともできない身体で、いつも臥していました。

 ここからは推論の話になりますが、その後無惨に唆されて鬼となった累は自分を殺そうとした家族を殺してしまったわけで、そこには累なりの「憧れ」があったんじゃないかなと。

 人間時代は両親と共に歩むことができず、鬼になってからは自分の存在自体を忌避され、鬼になる前も後も、「累」という人物は徹底して「円満な家族」に恵まれなかったわけです。かなしいね。

 「家族に恵まれなかった欠落」を抱えた累が、「偽物の家族を構築し安寧の時を過ごす」というのは、人間時代に得ることのできなかった欠落を、鬼になり大きな力を得たことで埋めようとしていたんじゃないでしょうか。

 

2-2.上弦の陸・妓夫太郎/堕姫

 

 続いて上弦の陸・妓夫太郎/堕姫の兄妹。ちなみに妓夫太郎は現時点でトップクラスに好きなキャラクターです。どこまでも救われない姿が本当に愛おしい。

 作中で描かれた事実として、彼らは「取り立てられる側の人間だった」という点があります。娼婦の子供として生まれた妓夫太郎と堕姫は極めて貧しい生活を過ごし、妓夫太郎はその容姿の醜さから周囲の者に恐れられていました。

 ある日堕姫は侍の目を簪で潰したことがきっかけで全身を焼かれ、黒焦げになってしまいました。そこに駆けつけた妓夫太郎は確か「やめろやめろ。俺たちからこれ以上取り立てるな」みたいな台詞を発していたと記憶しています。

 

 そこに現れたのが童磨。アニメ初見時、CVが宮野真守でおったまげたんですが、彼の手によって妓夫太郎達は鬼になり、その後彼らは「取り立てる側」に回りました。

 

 累と同様、彼らもまた「人間の頃に得ることのできなかった欠落」を、鬼になった後に取り戻そうとしているように見えます。

 そして累・妓夫太郎/堕姫に共通していそうなのが、「彼らは人を殺すこと自体を目的として人を殺しているわけではない」点かなと思っています。

 どういうことかというと、累は「偽物の家族を作る」という目的を達成する過程で人を殺しており、妓夫太郎/堕姫は(ちょっとグレーですが)「自分達が取り立てられる側に回らないため」に人を殺しているわけで、どちらも人を殺す行為は手段であって目的ではないように見えるわけです(少なくとも堕姫の本質は甘えたがりの駄々っ子であり、人殺しによって快楽を得ることが彼女の本質的な人物像ではないはずです)。

 

 もちろん彼らは「十二鬼月」という、鬼の中でもトップクラスの実力の持ち主であり、鬼は人の血肉を喰らえば喰らうほど強くなるという設定があるので彼らもまた何十、何百という命を屠ってきた存在ということに違いはありません。ですが彼らが鬼として存在する行動原理には、「過去に何かを失った」というもはや取り返しようのない喪失があり、それをなんとか埋めようと懸命にもがいているようにも見えるのです。

 

2-2.魘夢・玉壺・半天狗

 

 それとは正反対である「快楽を満たす者」に位置付けられると考えられるのが、魘夢・玉壺・半天狗です(恐らく童磨もこちら側だと思いますが、描写があまりにも少なかったので一旦除いています)。

 

 無限列車編で登場した魘夢は、人々に夢を見せた後で命を奪い、玉壺は人の命を弄ぶ芸術を好み、半天狗は自己弁護としての嘘を吐き続けながら罪悪感なく人の命を殺す、いわば「外道」達です。

 上記の事実から導ける推論としては、彼らは皆「人間時代救いようのない悪人だった者達が、鬼に成った後も延長戦を続けている」というのが挙げられます。

 要するに「人を殺すことそれ自体が目的となっていて、人を殺すことで快楽を得ている存在」と換言できるわけです。

 

 ひとくちに「鬼」といってもその内実は様々で、満たされることのない渇きを抱えながら生き続ける者と、他人の損得より自己の利益・快楽を優先する者に大別できるといえそうです。

 

3."猗窩座"という鬼

 

 お待たせしました。ここまで三千文字近くも使って何をたらたら書いとるんやと数少ない読者に石を投げられそうですが、やっと本題に入ります。猗窩座の話です。

 これまで挙げた鬼の分類のうち、僕は現時点で猗窩座のことを「欠落を抱えた者」だと思っています。

 

3-1."強さ"への一貫した姿勢

 

 猗窩座という鬼についての(アニメ「刀鍛冶編」までの)描写は少なく、無限列車編の終盤と刀鍛冶編の冒頭でちょろっとその姿が描かれたのみでした。

 ただ、そんな数少ない描写の中でも窺い知れる猗窩座の性格、それが「強さへの一貫した姿勢」です。

 

 映画「無限列車編」では炎柱・煉獄さんの前に立ちはだかりその強さを讃え、鬼になれば悠久の時を自らの研鑽に費やすことができると語り、「刀鍛冶編」では上弦の弐・童磨相手に毒づくシーンが描かれました。

 いずれのシーンも猗窩座のスタンスを明示したシーンで、他の上弦の多くが「殺人」自体に快楽を見出す中、猗窩座は毅然として「強さ」「強者との戦い」を望む人物として描かれていたように思います。

 

 特に「無限列車編」で煉獄さん達の前に現れた猗窩座は、それまで炭治郎達が戦ってきた魘夢が「人を嬲り殺しにすること」を目的にしていたのに対し、「強者との戦い」を目的にしていました。

 その片鱗は煉獄さんとの戦いの中での台詞にも現れていて、本来敵対関係にある鬼殺隊の煉獄さんに対しても「鬼にならないか?」「鬼になれば何年も鍛えることができる」「死んでしまうぞ、杏寿郎」とある種の仲間意識に似た感情を向けています。

 猗窩座の勧誘を断った煉獄さんはその後猗窩座との戦いで命を落としてしまいますが、猗窩座は「煉獄さんが勧誘に乗らなかったから殺した」だけで、仮に煉獄さんが勧誘を飲んでいたらその場で拳を収めたでしょう。

 猗窩座にとって鬼殺隊の人間を殺すのは、ただ彼らが「鬼殺隊という組織に属す人間」だからであって、その枠を外れた存在に対して(他の上弦とは異なり)倒錯した感情を向けることはしないのではないか、というのが僕の推察です。

 

3-2.童磨への嫌悪感

 

 「遊郭編」の終盤で姿を現し、「刀鍛冶編」でその表層が描かれた上弦の弐・童磨。

 上弦が招集された場では猗窩座の肩に手を置き薄っぺらい言葉を吐きながらヘラヘラと笑っていた童磨ですが、そんな童磨に対して猗窩座は明確な嫌悪感を露わにしていました。

 

 童磨が玉壺に対して「それは新しい壺かい?綺麗だねぇ。お前がくれた壺、女の生首を生けて飾ってあるよ」と語りかけたシーンで、猗窩座は拳を握り締め、額に青筋を浮かべていました。

 

 

 無惨の御前だったからか殺し合いには発展しませんでしたが、問答無用で童磨の顎を砕く猗窩座の立ち振る舞いは、これまで登場した(快楽主義を謳歌する)鬼とは異なり、「矜恃」に似た感情の動きと、それらとは対極の位置に属する童磨への嫌悪感が込められているように見えました。

 

 もちろん童磨が言うように、猗窩座より後に鬼になった童磨が序列的に猗窩座の上にいるというのが気に食わない、というのもあると思います。ただそれに関しても、前述のように強さへの並々ならぬ執着があるから、と考えれば彼の人物像に一貫性を持たせることはできそうです。

 

4."大切な人を守れなかった人間像"

 

 これらのことから、僕は猗窩座という鬼の人間時代は、以下の二つのどちらかではないか?と妄想しています。ここから先は完全に僕の性癖、妄想が爆発していますので、鼻で笑いながら読んでくれればと思います。何度も言いますが僕は原作未読勢なので。

 

 ①かつては名の知れた武人だったが、愛する者(家族or恋人)を守ることができず、己の力に限界を感じた青年。

 ②道場の息子として生まれたが虚弱で戦うことができず、愛する者一人守ることができない弱さに悔いと恥を抱えた青年。

 

 どちらも「青年」としているのは、これまで作中で登場した鬼のうち人間時代の姿が描かれている者は、そのほとんどが鬼に成る直前とそれ以降で容姿に変化がなく、鬼に成った時点で肉体的な老化は停止するのではないか?と思われるからで、猗窩座はその容姿から比較的若い段階で鬼に成ったと推測しているからです。感覚的には二十代前半〜後半、といった感じでしょうか。

 

 ①も②も人物像の根幹に「大切な人を守ることができなかった」というのを置いているのは、猗窩座の「強さ」への徹底したこだわりは、むしろ人間時代に負った強烈なコンプレックス、つまり「喪失の原体験」からきているのではないかと思われるからです。

 そして僕は、人間にとって最も大きな喪失をもたらすものの一つが「目の前で大切な人が(自分の無力さが原因で)命を落とすこと」だと思っています。

 

 それはちょうど貧しさが原因で病気の親を救えなかった子が金に異常な執着を見せるようになるのと同じように、「大きな喪失」を経験することは「喪失の原因となったもの」に対する強烈なこだわり、コンプレックスを抱くようになるきっかけでもあり、先述の累や妓夫太郎/堕姫にも通ずるものがあります。

 家族を欲するあまりに偽りの家族の姿をいつまでも追い続けたり、奪われ続ける人生だったが故に奪う側に回ったり、過去のトラウマ、心の傷が巡り巡ってその者にとっての「歪んだ行動原理」を構築するわけです。

 

 そして猗窩座の人物像、根底にあるトラウマ的価値観が「強さへの執着」であるとするなら、そこにあるのは「かつて大切な人を(自分の無力さが原因で)救えなかった喪失感」であり、その欠落が猗窩座をこれでもかと「強さ」に駆り立てたのではないでしょうか。

 

 ①も②も大枠は変わりませんが、異なるのは「人間時代の猗窩座の立ち位置」です。

 ①は「手の届く距離にいた人を、僅かに力が及ぼなかったばかりに失ってしまった」という人物像であり、②は「そもそも力を持たなかったが故に、大切な人が死にゆく瞬間に何もすることができなかった」という人物像です。前者は『あと少し強ければ救えた』という自己嫌悪であり、後者は『この身体じゃなければ救えた』という自己否定です。

 

 そしてこの「愛する者」が誰なのか、という点についてですが、「女の生首を〜」という前述の童磨の台詞に怒りを発露しているのを踏まえると、「恋人」が有力なのではないでしょうか。

 もちろん時透無一郎や不死川玄弥のように兄弟・親という肉親の可能性も捨てきれません。ただ親や兄弟とは違い、「星の数ほどの出会いの中で、自分が心を許し、片時も離れることなくそばにいてほしいと思った他人の死は全く別の湿度を含んでいますし、そんな存在を目の前で失った過去があったとすればそれはもうめちゃくちゃ僕の性癖に刺さります。

 

 自身の無力さが原因で恋人を失った人間が、その喪失感から力を求め鬼になり、百年以上も過去の絶望と喪失に囚われ続けているって、最高じゃないですか?(倒錯した性癖)

 流石にどういった理由で恋人が死んだのかまでは分かりませんが、仮に恋人が鬼に殺されていたのであればいくら力を追い求めたとしても恋人の命を奪った存在と同質になることを選択するとは考えにくいですし、病というのも「肉体的な強さ」に固執する理由としては考えにくいので、あるとするなら人間の理不尽さによって命を奪われた、あたりでしょうか。例えば戦争や、身近にある理不尽な暴力とかですね。

 

 ここまで書いておいて、このパートだけ熱量とキモさが異常なことに気づいたんですがどうか許してください。猗窩座の正体についての考察記事のはずが、いつの間にか性癖博覧会と化しているのできっとこれを読んでいる数少ない読者はドン引きしていると思います。

 

 これを読んでくださっている方の多くがこの作品の今後の展開をご存知でしょうから、もしこの考察が少しでも掠っていたらぜひニヤニヤしていただき、完全な的外れだったらそれはそれでニヤニヤしていただければ幸いです。

 

 刀鍛冶編以降のアニメ化も決定しているので、僕はゆるりとアニメで描かれる日を待とうと思います。

 

 

 それではまた。

 

 

 よしなに。