ども、けろです。
春ですね。出会いと別れの季節とはよく言ったもので、仕事では職場の異動や退職、新卒の入社など目まぐるしく動いています。
そしてそれはオタ活の世界にも言えることで、春といえば春アニメの時期です(?)
そんな春アニメ、僕はあまりにも時間を使うのが下手なので何作も追いかけるということはできないんですが、そんな僕でも「これは面白そうだから見てみよう」と思う一作がありました。
ジャンプ+で連載中、現在1200万部を超える超人気作品、『SPY×FAMILY』です。
僕はお恥ずかしながらこの作品を一切通らずにここまできてしまっていて、周りからは原作を読んでほしいとめちゃくちゃに勧められています。そして今日に至るまで読めていません。
そんな中始まったアニメ『SPY×FAMILY』。
僕はアニメが始まる前から決めていました。「この作品が事前のネタバレを一切見ることなくアニメで全てのストーリーを知ろう」と。
もちろん原作には原作の面白さがありますし、原作者を応援するのであれば原作コミックスを買うのがセオリーだということもわかっています。
ただそれでも、超ヒット作品がアニメで描かれるのであれば、それを初見で楽しむというのもエンタメ作品を楽しむ一つの醍醐味なのではないか、と。
というわけでここから先は『SPY×FAMILY』完全初見の僕が、アニメ1話を1回見た感想を好き勝手に話していく回です。現時点で入手している情報は一度見たアニメ1話だけであり、SNSでも極力他の方の感想には触れていないので、完全初見と言って差し支えないでしょう。
ガチの完全初見である都合上、恐らく今後の本編の大筋とは違う視点で物語を好き勝手に語っていきますので、今後のストーリーを知っている方は暖かな目で見守ってくださると幸いです。
それではやっていきましょう、『SPY×FAMILY』感想回です。
1.アーニャが可愛い
アーニャが可愛い。多分これは僕以外の多くの人が思ったことだと思います。
いやマジで可愛かった。
前評判でもちょくちょく流れていたティザー映像でも、街中に展示されていたポップでも目にしていたのでなんとなく「この子供は可愛いんだろうな」と舐めていたんですが、動いて声がつくと尋常じゃない可愛さで一人悶える27歳独身男性と化していました。
ロイドのことを「パパ」でも「お父さん」でもなく「ちち」と呼ぶ姿は何度見てもニヤニヤしちゃうし、相手の心を読めるという超能力がゆえにロイドの心の声を知って一人であたふたしているところはほんまにニヤニヤしちゃうし、30分間ずっとニヤニヤしていました。
アーニャの境遇はおおよそ5歳の少女が背負うには過酷すぎるものなのに、普段の振る舞いにはそれを感じさせない明るさがあるし、何より可愛い。今何が一番見たいですかと聞かれたら「アーニャの初めてのおつかいです!!!!!」と起立してデッカい声で叫ぶ自信があります。
第1話でこの破壊力って、第2話以降どうなってしまうんですかね、僕は。きっと壊れた機械人形のように永遠と「可愛い」を連呼する27歳独身男性になっているんだと思います。
2.アーニャの境遇に自分自身を重ねるロイド
「スパイとしての任務を達成するため」という極めて淡白かつドライな理由でアーニャを引き取ったスパイ、ロイド・フォージャー。
一度は彼女を施設に送り返そうと思っていたロイドですが、彼女が過去に4度里親に引き取られ、そして施設に送り返されていることを知ったロイドは彼女を預かることを決意しました。
ここで浮かんできたアーニャとロイドの共通点は「自分を愛してくれる親がいないこと」とそれゆえに「本当の自分自身がどこにもいないこと」だと感じました。
ロイドの過去は本当に一瞬描かれただけですが、時代設定とロイドの回想で描かれたシーンから考えるに、彼は戦争孤児なのではと思ったわけです。
親を失い、頼るあてもなく一人で泣くだけだったロイドが、生きるために選んだ道がスパイだったのだとすれば、彼の人生というのはまさしく「どこにも本当の自分がいない」ものであり、任務のたびに人間関係も名前も一新している彼は「天涯孤独」と言って差し支えない気がします。
そしてそれはアーニャも同様で、戦争を有利に進めるための「道具」として生み出されたアーニャは「愛情」というものを受けずに育っていました。
自分が大好きな「お絵かき」を大人によって取り上げられ、やりたくもない「勉強」を強制される日々。
挙句の果てには4度に及ぶ施設と里親のたらい回し。
サラッと描かれていますが、「姓が4度変わる」というのは、「自分自身を構築するアイデンティティを4度奪われた」ことを意味しています。いっときは「親」となる大人を獲得したと思えばまた施設に送り返される、その繰り返し。
その結果アーニャは「ロイドの顔色を窺う」ように行動するようになったし、「ロイドに引き取ってもらうよう振る舞う」という、どこまでも他者目線で自分の行動を決める子供に育ってしまったんじゃないかなと。
だからそういう意味で、この二人は(作中でも言及されていましたが)とてもよく似ているし、ロイドがアーニャにかつての自分を重ねたのはある種当然の結果だったんじゃないでしょうか。
ロイドがアーニャの頭を撫でながら彼女の4つの旧姓を口にするシーンは、「自分の過去のどこを切り取っても本当の自分はいない」という背景を持つロイドにとっては、ある種アイデンティティの再構築に繋がっていくんじゃない?と第1話を見て勝手に期待してしまったわけです。
3.アーニャの精神的成長に見る展望
そんなアーニャが第1話の終盤で見せた成長、個人的になぜかめちゃくちゃ泣きそうになりました。
彼女にとって「勉強」とは「大人に強制されるもの」で、「やりたくないもの」でした。それは初めてロイドに勉強するよう促された時にも明確な反発として描かれていますし、アーニャという人物が大人に対して抱いている距離感というのが暗示されているような気がします。
ですが第1話終盤で、自らの意思でロイドと勉強することを選択しています。恐らくは家を追い出されないためという打算も含まれていたんだとは思いますが、あれほど毛嫌いしていた「勉強」に自ら進んで取り組むというのは、それだけでアーニャの精神的な成長を感じたし、彼女がロイド相手に心を開き始めていることが仄めかされた気がして、それだけで勝手に親目線になっちゃったんですよね。
作風自体はコメディテイストを中心に置きながらロイドのスパイ活動が描かれるというものでしたが、僕はここに「欠落と救済」を垣間見てしまって勝手に盛り上がっていました。
学校に入学したアーニャが級友との関わりを通じて人間らしさや温かさを獲得していくんだとしたら本当にどえらい展開だし、そこに「自分自身の欠落」を抱えるロイドが関わっていくんだとしたらそれはもう壮大で等身大な人間ドラマなんですよ。原作未読ですけど。
4.関係性存続の外部依存
だからこそ第1話で描かれたロイドとアーニャの不思議な距離感が、むず痒くもあり微笑ましくも見える気がするんですよね。
ロイドは自分自身がスパイであることを隠し、あくまで「任務遂行のための体裁」のためにアーニャを育てているし、アーニャはアーニャで「それを超能力で知った上で取り繕った行動をする」という建前を見せています。
言わばこの二人は「親子としての関係性の担保を外部依存する」という脆さを抱えているわけで、その脆弱さを抱えながらもロイドは「子供という未知の存在に向き合う」し、アーニャは「大人という畏怖の対象に徐々に心を開いていく」わけなので、そこら辺の温度感がとても歯痒く、そして最高に萌えたんですよ。
この不思議な距離感の二人が見せるコメディホームドラマ、今後に期待しかないです。原作未読なのでこれ以降の物語一切知らないんですけど。
5.ロイドの「黄昏」という呼び名
最後にロイドの「黄昏」という呼び名について、ふと気になったので考察という名の妄想をしていきます。
この「黄昏」という言葉、「夕暮れ時」という意味を持ちます。
太陽が水平線に沈みゆくちょうど夕刻、昼と夜の境目が曖昧になる時間のことですね。
そしてこの「夕暮れ時」というのは、陽が落ちて辺りが暗くなり、人の顔が見えにくくなる時間でもあります。
そこから転じて、「黄昏」には「誰そ彼(あなたは誰)」という語源があります。相手の顔が見えにくい時間であるが故の言葉選び。昔の人の言語感覚には脱帽します。
つまりロイドの呼び名、通り名である「黄昏」には「あなたは誰?」という意味があり、それはそのまま様々な顔を持つがゆえに「誰でもない人間」であるロイドに対する、世界からの問いかけなんじゃないでしょうか。
ロイドはその通り名で呼ばれる度に、相手から、そして世界から問われているんじゃないかと思っています。「あなたは誰」「本当のあなたはどこにいるの」と。
この呼び名の意味が今後回収されるのかは定かではありませんが、僕はどうしてもここら辺が気になってしまったんです。オタクなので。
というわけで長くなりすぎないうちにここら辺で。
気が向いたら第2話視聴後にまた感想記事を書こうと思います。
それではまた。
よしなに。