けろの漫画雑談所

漫画の感想・考察・妄想の集積所です。主にジャンプ作品についてだらだらと語ります。

【考察】「緑谷出久」と「青山優雅」の対比について|「もう一人のデク」としての青山【僕のヒーローアカデミア】

Hatena

 ども、けろです。

 今週のジャンプ、久しぶりに「地獄」でしたね。

 先週(wj52)のヒキから一転、真の内通者がA組のクラスメイトである青山優雅であるということが明かされ、読者には衝撃が走りました。

 

 そのおかげで僕は月曜日からメンタルがボロボロになっているわけですが、この展開を受けて思うところがあったので記事にしようと思います。ちなみに本誌を受けた直後のメンタルで書いた記事は下記になります。

 

kero-entame-channel.hatenablog.com

 

 というわけでやっていきましょう、ヒロアカ考察回です。

 

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 (12/07 追記:Youtube動画も作りました。ヒロアカの動画を作るのは初めてでしたがよければ見ていってください)

 

youtu.be



1.ヒーロー社会の光と闇

1-1.「個性」というヒーロー社会の脆弱な前提

 

 ヒロアカの世界というのは当たり前ですが「個性」の存在が前提となっており、特にデク達の世代にとっては「持たない者が稀有」なほど定着したものになっています。

 それは単に「ヒーローを目指す者(という特定の人)にとって重要」、というような話ではなく、「もはや個性があることが暗黙の了解」になっています。

 

 これが何を意味しているかというと、ヒロアカの世界ではほぼ全ての人が「みんなも個性を持っていると思っている」ということです。

 それはちょうど僕たちが生きる現実世界で「異性愛」が暗黙の了解として対人コミュニケーションにおいて機能してしまっているのと同じで、「言われないとそれに気づかない」ほど無謬の前提になっています。「あぁそういえば無個性の人もいるよね」くらいになっているんですよ、良くも悪くも。

 

 

 その結果として生まれてしまうのが、単行本第1巻第1話における「ヒーローという光」と、「デクのような影」という歪みです。

 

kero-entame-channel.hatenablog.com

 

 強い個性を持った者は周りから持て囃され承認欲求を満たしていく一方で、無個性の少数者は周りから馬鹿にされて生きていくという非対称さは、デクとかっちゃんの関係を見ればわかりやすいのではないでしょうか。

 もちろん劇場版第1作のヒロインのように、「無個性」でありながらも自分の夢を見つけ、その道をまっすぐ歩むキャラクターもいます。

 ですがこれまでの物語の中で「無個性」として描かれたキャラクターというのは限りなく少なく、思い出せる限りでは「緑谷出久」「オールマイト」「殻木球大」くらいで、そこに「青山優雅」が加わっても本当に少数です。それほどまでに「無個性」というのは稀有な存在であり、透明化されてしまう脆弱な存在です。

 

 ヒロアカの世界は「みんなが個性を持っているよね」という脆弱かつ不安定な前提の下に成り立っているということです。

 

1-2.オールマイトに救われたデク

 

 そんな世界において、緑谷出久は「オールマイトのようなヒーローになりたい」という幼少からの憧れと、「ヒーローを志すために必須となる"個性"が無い」という事実との間に苦しんでいました。

 憧れのオールマイトにさえ「無個性でもやっていけるとは言えない」と言われていましたし、中学のクラスメイトにも笑われていました。

 デク本人もそれを薄々気付いていて、それでも諦めたくないという思いの狭間でずっと葛藤しているという主人公でした。

 

 そんなデクに救いの手を差し伸べたのは、トップヒーローであるオールマイトであり、彼から個性を授かることでデクは雄英高校に入学し、ヒーローへの道を歩み出すことができました。デクは「オールマイト」という存在によって救われ、夢を諦めることも道を踏み外すこともなく正道を歩むことができたわけです。

 

 メタ的に言えば「主人公だから」なわけですが、それを差し引いても彼は「ラッキーだった」と言えるほどには幸運に恵まれています。何せナンバーワンヒーローであるオールマイト直々に個性を授かり、その資質を見込まれるというのは(デク本人がヒーローに必要な素養を持っていたとしても)運が味方していなければ起きないことです。オールマイト本人も「OFAはミリオに継がせる予定だった」と言っていますし。

 

1-3.AFOにつけ込まれた青山

 

 ではみんながみんなデクのようにラッキーかというと当然そんなことはなく、光があれば影があります。

 その結果として生まれてしまったのが「青山優雅」というキャラクターであり、彼は存在そのものがデクの完全なる対比として描かれているわけです。

 

 彼はデクと同じ「無個性」であり、幼少期に周囲から「馬鹿にされた経験」を持ち、そして何より「ヒーローを目指したい」と思っていた。

 ただデクと青山で決定的に違ったのは、「手を差し伸べてきた相手」でした。デクがオールマイトという眩い光に支えられたのに対し、青山を支えたのはオール・フォー・ワンという巨大な闇。

 

 この対比を見比べた際に浮かび上がってくるのは、「デクも、オールマイトより先にオール・フォー・ワンと出会っていたら青山のようになっていたかもしれない」というifの展開であり、「青山も、オール・フォー・ワンより先にオールマイトと出会っていたら救われていたかもしれない」という夢想です。

 彼の両親が告白しているように、彼らもまたオール・フォー・ワンによって弱みにつけ込まれた被害者であり、その点では彼らを正面から責めることはできないよな、とも思います。

 

 言わば「青山優雅」というキャラクターは、「もう一人の緑谷出久」であり、「if世界のデク」としての側面を持っているということです。

 

2.名前の対比

 

 それを証明しているかのように、彼らは名前が対比になっています。

 「緑」と同じ色としての「青」、「谷」の対比としての「山」は分かりやすいですが、深読みするならば苗字だけではなく名前も対比になっていると考えられます。

 

 「出久」が「デク」と読めるのは「木偶の坊」からの連想ですが、「木偶」には「木彫りの人形」の意味があります。色味としては茶色とかが浮かぶ、比較的「質素な印象を持つ名前」です。

 

 対して「優雅」は、その名の通り「輝きを持つ名前」であり、連想される色味は金や銀、黄色といったキラキラとした多彩な色ではないでしょうか(少なくとも「黒」や「白」といった控えめな色味では無いでしょう)。

 

 

 つまり「緑谷出久」と「青山優雅」は、その名前が綺麗な対比・鏡合わせのような存在であり、その生い立ちもまた「出会う順番が違えばお互いの立場も違っていた」という対比になっているキャラクターということになります。

 

 

 これが物語の構想のどの段階で考えられていたのかが本当に怖いのですが、読み返していくとかなり初期の頃からその伏線が描かれていたので、恐らく堀越先生の中ではプロットの初期段階から練られていた設定だったのではないでしょうか。

 

 

 

 いかがでしたでしょうか。

 簡潔にではありますが緑谷出久と青山優雅の関係性についての記事でした。こういうのを考えるのは本当にしんどいですがめちゃくちゃに楽しいというジレンマがありますね。

 

 

 それではまた。

 

 

 よしなに。