ども、けろです。
不定期でお送りしている読切感想記事ですが、三度面白い読切に出会えたのでそれを取り上げようと思います。
ここで取り上げている以外にもおすすめの読切漫画はいくつかあるので、そのうち「おすすめ読切○選」的な記事を書こうと思います。
それではやっていきましょう、『減量機械』感想回です。
1.透明な貧困層、矛盾に満ちた富裕層
物語冒頭から終盤まで、一貫して描かれる貧困層と富裕層の対比。
これを単なる「持たざる者」と「私欲を貪る者」として捉えることはできるけれど、徹底して透明化される貧困層の存在もまた、注視すべき対象かもしれない。
冒頭、工場内で主人公・能塚を呼び出す際には「126番」という「番号/記号」が用いられ、上長である所長は主人公のことを「山田」と誤った名前で呼称する。
加えてこの漫画、主人公の名前を他人が呼んでいる描写が一切ない。
呼ばれる際も「君」「あなた」という、ある種誰に対してでも用いることのできる呼称が用いられ、そこに「能塚」という個人は存在していない。つまりこれは「労働者は誰であっても代用が効くし、そもそも貧困層の一人や二人を認識すらしていない」ということを暗示しているのでは。
主人公が歩く街中にいるホームレスや他の貧困者達にセリフや名前はなく、「ただいるだけの記号」と化した貧困層達。ニュースで報じられる「失業率」は、統計や数字といった机上の存在で、そこにいるはずの「膨大な個人の生きる姿」は映し出されない。
唯一の頼みの綱であった行政も、「あなたみたいな家庭はたくさんあるんですよ」という役所特有の流し作業。
寿司を(シャリを残して)食い、0カロリーコーラを飲みながらダイエットへの意気込みを語る所長は自身の矛盾に気づいていない。
家庭という空間以外に認識される場を持たない貧困層。
それらを機械同然に使い倒す富裕層。
あぁ、これが資本主義の行き着く最果てなのかもしれない。
2.ヒトをも組み込む「万物の代謝」
父がリストラを苦に自死を選び、母は工場労働の末煤煙による病死。
主人公・能塚も解雇まで秒読みで、彼は虚な目をしながら独白する。
「俺たちはゆっくりと死んでいる。
これ以上何を差し出せばいいのだろう。
絶えず万物が代謝するこの街で」
代謝という言葉は、本来的な意味は人間の体内で起こる化学反応である「新陳代謝」の名の通り、「新しいものを生み出す一連の流れ」を意味する。
転じてそれらが他のものに対して使われる時、意味するのは「入れ替わりが激しい」ということ。「サービスの代謝」「エンタメの代謝速度」という風に、「古いものから新しいものへの移り変わり」を示唆する。
「万物の代謝」
経済発展と社会成長。そして(一部の限られた者の)娯楽のためにあらゆるものを消費し、使い倒し、使えなくなれば新しいものへ入れ替える。
「人間」すらその一部に組み込んだ社会において、「ヒト」と「機械」の境目はどこにあるのか。
「感情」を持つ人間は、「合理主義」の社会において「機械」に勝る側面はあるのか。
3.合理化の行く末
人間が機械に勝る最大の点は、「想像(創造)力」と「悪意」。
この掛け算によって主人公が生み出した「ダイエットマシーン」はまさしく人の悪意と皮肉の結晶であり、機械が作り出せない「黒々しさ」を含んでいる。
所長に問い詰められた主人公が口にする「合理化ですよ」は、表面的には正しくもあり、その奥底には煮詰められた悪意と怒り、そして残される妹への想いで満ちている。
3-1.「結果」のみを認識する機械
機械によりバラバラにされた代表取締役。
切り落とされた頭部と指が軽量台に乗ると、司会進行役のロボットは淡々と「重量差を計測中…マイナス98.0kgです」という結果を告げる。
徹底した合理化とその化身である機械は、その過程に存在するはずの「命」を勘定には含めず、ただただ「結果」を口にする。
機械にとって「人間」も「肉塊」も、等しく同質のものとして映っているのだろうか。
そして僕たちは、近い将来「肉塊」に変わり果てるのだろうか。
3-2.「減量されるモノ」達
無駄を削ぎ落とした結果、切り捨てられたのは私欲を貪る富裕層と、家族を養うことのできない主人公自身。
主人公が自らこの結末を選んだことは確かに「悲劇的」だけれど、これもまた「合理的」という観点で見れば正しい判断だろうし、だからこそ皮肉・風刺としての側面が際立つ。
主人公が生み出した「減量機械」は、果たして「何」を減らすモノだったのか。
普段と少しだけ語り口調を変えてみました。
こういう作風の作品にはこういう口調の方が合うのかなと思ったり。